こんにちは。
先月は数日間院を休診させて頂き、あるところへ行って来ました。
それは、フィリピンです。
実は私の母はフィリピン人で幼少期はフィリピンで多くの時間を過ごしました。
祖父が亡くなってからは、何となく足が遠のいていたのですが、ひょんな事をきっかけに20年以上振りに第二の故郷へ出向く事が出来ました。
今回の記事の内容は、これまでの心や体など「健康」に関する内容とは異なり、この旅を通じ感じた様々な思いを記事にしています。
タイトルにもありますように、決して気分が明るくなる内容ではないので、少しでも暗い気分になりたくない。と思われる方はそっと画面を閉じられてください。
ご興味のある方はこのまま読み進んで頂けると嬉しいです。
二つの旅の目的
今回の第一の目的は母との思い出作り。
昔は価値観の違いや言語の壁などが理由で喧嘩が絶えなかったのですが、ただでさえ大変な子育てを右も左も分からない異国の地で彼女なりに精一杯行ってくれていた事を想像すると、自分も現在子育てを行う身として、大人になるにつれ感謝の念を抱くようになりました。
これまで様々な出来事がありつつも、先日そんな母が60歳を迎えたタイミングで、後一緒に過ごす時間がどれくらい残されているのか。なんて考えた時に、「過去がどうとか、何があったとかそんなのはどうでも良い。」「母も親である前に、一人の人間だった。」そのような考え方に変わっていきました。
ただ真っさらな気持ちで限られた時間を大切にしたい。それが、今回の旅の一つの目的でした。
第二の目的は、先人達の歴史を辿ること。
フィリピンの首都マニラは、日本とアメリカの第二次世界大戦が起きた際の主戦場となった国でもあります。
その中のフィリピンの首都マニラでは、多くの日本兵(約一万五千人)やアメリカ兵(約一千人)フィリピン一般市民の方々(約十万人超え)が命を落とし、かつて”東洋の真珠”とも言われていた美しい街並みが市街戦により壊滅した悲しい過去をもつ場所です。
しかし直近でも新たな戦争が始まったように、世界各地で未だ争いは絶えません。
だからこそ、そのような地に直接足を運び全身の感覚器官をフルに使って当時の戦跡を感じ取ることが今の自分に意味があるような気がしてならなかったのです。
前編:イントラムロスサンチャゴ要塞へ
下記の写真は、目的地に向かうまでの街並みです。
フィリピンの首都マニラは、高層ビルが聳え立ち、一見とても都会的で日本となんら変わらない光景を目にする一方で、少し路地裏を入るとこのような光景が広がっています。
正に光と闇の両方がはっきりと目視出来る国です。
目的地のサンチャゴ要塞へ辿り着きました。
サンチャゴ要塞とは、かつてスペインがフィリピン統治時代につくられた防衛要塞。
第二次世界大戦時には日本軍によりこの場所は占領され、捕虜の収容所としても使われたことで多くの人々が飢えや拷問などで亡くなったとされています。
正直、日本人としてはとても気まずい思いをするかもしれない場所です。
敷地内には、アメリカ軍から受けた数多くの銃弾痕が当時のまま残されています。






本音を言うと、この場所だけでも胸が締め付けられる思いだったのですが、次は更に悲惨な事実を知ることになります。
下記の写真は、実際に日本兵が捕虜を処刑していた地下牢の入り口です。
実はこのサンチャゴ要塞、海にとても近い場所にあって、満潮になるとこの地下は沈みます。
要するに日本軍は捕虜達をこの中に押し入れ、”水責め”にし溺死させる処刑法を行っていました。
引き潮の際に遺体は海へ自動的に流される仕組みになっていたので、当時はとても効率的な処刑法だと考えられていたようです。

その他にも、とてもここには連載できないような当時の実際の映像を使ったヒストリー動画や惨い写真の数々が展示されていました。
溜め息をつく人、落胆の声が出る人、祈る人、すすり泣く声が狭く薄暗い地下牢の空間に響き渡ります。
あまりの目を背けたくなる惨劇に、その場にいた全員が同じ思いに駆られていることが全身でヒシヒシと伝わってきました。
ここまで先人達の戦跡を辿る旅前半。
“戦争がもたらすものは悲劇と苦痛をもたらすもの”
これまで頭では分かっているつもりでいましたが、改めて足を運ぶ事で日本兵、アメリカ兵、そして一般市民であるフィリピンの人々、それぞれの立場になって出来る限り考えを張り巡らしてみても、誰が正しい・誰が正しくない。そんな一言では片付けられない想像を遥かに超えた苦しみがそこには存在していました。
ただただ、数十年前にここで起きた真実を受け止める事がその時の私には精一杯だったように思います。
後編:神風特攻隊が初めて特攻を行った飛行場へ
次の日は、マバラカット飛行場という特攻隊が初めて特攻を行った場所へ行ってきました。
その場所は、私達のいる首都マニラからは車で約2時間半のアンヘレスというところにあります。
この場所を運転手さんに聞いても分かる様子がなく、他の方にも聞いていく中で「神風(カミカゼ)」のワードを出すと、ようやく伝わった様子。
“カミカゼ”と言う言葉は、日本だけではなくこのフィリピンの地でも浸透している。そう深く感じた瞬間でした。
田舎道が続き、情報量も少ない中、「本当に辿り着けるのだろうか。」少し不安になる中、ようやく道路際に”神風”といった看板を見つける事が出来ました。
入口には鳥居が奉られています。
鳥居をくぐると、飛行服姿の特攻隊員の像がありました。

周囲には私達2人だけ。そんな静寂な場が1人佇む特攻兵の存在感をより際立たせています。
特攻隊の多くは17歳から20歳前後の若い青年だったそうです。
フィリピンのレイテ島開戦を機にここから現地へと飛び立った訳ですが、右も左も分からない、故郷でもない、縁もゆかりもないこの土地でどんな思いでどんな思いに苛まれながら、死がそこにある事実を知りながら自らの命を断つ決意をしたのだろう。いや、もはや決意や選択肢なんて言葉は存在しなかったのかもしれない。
これから未来ある青年達が、自らお国の為に。家族の為に。と言いながら何人も旅立つ姿を想像すると、様々な思いが脳裏をよぎりました。
そんな中、どこからともなくひょっこりと顔を出し話しかけてきた自称ガイドのおじさん。
なにやら、ノートに今日の日付と名前を書いて欲しいとの事。
ここはカミカゼだ。と一言紹介され、その後は「気持ちでお願いね。」と、しっかりお金を徴収されました。笑(腑に落ちない海外あるある)

他にも日本の方の名前が記載されていたので、この場所の存在を知って来訪される方々がいるのだと思います。(そして徴収されている?)

次に、車で10分程移動したところにあるマバラカット西飛行場跡へと向かいます。かつては東と西、2つの飛行場は道路を挟んで隣接していたそうです。
だだっ広い草原に、ぽつんと佇む慰霊碑。
現在この裏側は射撃場となっていますが、かつては飛行場が広がっていたようです。
この敷地の入口付近には守衛の方がいらっしゃり、車から降りるとすぐに日本人?と聞かれ、中へと入らせてくれました。

日章旗の下には、下記内容のことが記載されています。
<第二次世界大戦中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。この地に訪ねる参拝者の皆様に謹んでお願いします。全ての「神風」と連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りくださいとお祈りください。そして、全世界の平和の為に祈念して下さい。
歴史研究家 ダニエル・エッチ・ディソン>
(多少原文と異なると思いますが、出来るだけ原文に近い形で訳しています。)

改めて家族を思い、国を思い、今生きる日本の未来を思い、異国の地で散華された特攻隊員の方々に深い敬意と感謝の意を込めて。
後から知った事実なのですが、これらの東・西慰霊碑共に日本人ではなくフィリピンのある方が、特攻隊員の想いや歴史を風化させてはいけない願いを込めて、ご好意で建設してくださった経緯があるそうです。
また、上画像の西飛行場跡は現在私有地の為、中へと入れなくなくなっているそうで、今回入ることが出来たのは奇跡に近いそう。
何れにしても、東・西飛行場共にゴミ1つなくとても綺麗に管理されている様子が伺えました。
きっと地元の方々や管理者の方がこれらの場所を普段から手入れしてくださっていると思うと、胸が熱くなりました。
戦跡を巡ったその後
次の日は、心や体の全身で感じ取ったこれまでの事を自分の中で消化する時間を過ごしていました。
普段から自然の中に身を置く事が好きなのですが、この日は自分の想像する以上に受け止めるものが多過ぎたのか、気付けばあっという間に半日が過ぎていました。
あまりにも自然と一体化していた為か、数匹の芋虫も連れ帰っていました。🐛
いま自分に出来る、心の平穏
先人達の過去の戦跡を辿る中で、いま自分が出来ることはなんだろう。
そんな事をぐるぐると半日間考えてみた結果、1つの結論に辿り着きました。
それは、自分の心の平穏は自分で守ること。
私はこれまで生まれも育ちも日本で育ち、当然ながら日本側から見た歴史が自然と自分の中に刻み込まれていました。
しかし今回、少なくともこれまで知る事のなかった他国側の視点から日本の歴史の一部を垣間見る事が出来ました。
ここで言いたいのは、どちらが正解か不正解といった事ではありません。
人の数だけ考え方、価値観が異なるように、その国にはその国の”譲れない正義”があって、その譲れない何かがどうにも折り合いがつかなくなった時、戦争という名の最終的には命の奪い合いにまで発展します。
更には大衆を巻き込み、全てを狂わせてしまう。それが戦争です。
しかし戦争とまではいかなくとも、夫婦、親子、友人、職場、あらゆる人間関係においてお互いがもつ正義を押し通そうとする事による小競り合いが日常生活の中で度々起きています。
綺麗事のように感じるかもしれませんが、もしお互いに相手の意見に耳を傾ける事や相手にすり寄る思いやりの気持ちを持つことが出来れば、小さく衝突しても大きく調和することが出来るのではないか。
大きな”争い”にまで発展する事はないのではないか。
そして、それには何より自分自身の心の平穏がとても大切です。
なぜなら自分自身の心が整い、穏やかな状態でないと人の意見や価値観を受け入れる事、様々な角度から物事を見る事が難しいからです。
大きな事はできなくとも、少なくとも自分の心の平穏は守り続けることができる。
そして、今いる家族や自分に関わってくれている周囲の人達と和やかな関係を努力次第で築くことができる。
最小単位でも、1人1人がそのような意識をもって周りの人と調和できたら、それが人から人へと伝染して、きっと今より優しい世界になるんじゃないか。
それが今回の旅を通じ、今の日本を作ってくれた過去の先人達に私が出来る小さな恩返しなのではないか。といった結論でした。
もちろんこんなに偉そうな事を言っときながらも、私自身未熟なところがまだまだ沢山あるので一生かけて行っていきたいと思っている次第です。
長年の謎が解けたとき。
私にはいつも肌身離さず持ち歩く大切な1冊のテキストがあります。
それは、これまで姿を見たこともない、話したこともない、既に亡くなってしまった私が従事する経絡治療を考案した師匠が最後に後世に書き残してくれた東洋医学のテキストです。
もちろん、今回の旅にも当たり前のように持っていき、隙間時間に読んでいました。
いつも気になっていたのが、最終ページのあとがきにひっそりと記載されている「古医書医学が世界の平和と人類の健康と幸福のために、その日が一日も早くくることを願って筆を置く。」といった締めくくりの言葉。
東洋医学は、「心と体の繋がり」をとても大切にしている医学なので、体の健康なくして心の健康を手に入れる事は難しい。と言った考えを持ちます。
もし私の見立てがほんの少しでも合っているのであれば、この師匠の最後の一言には、患者さんの心の健康(平穏)を守る為に、患者さんの体の健康を守りなさい。それが、東洋医学を学ぶ物の役目だよ。そんな事を恐らく後世に伝えたかった事なのかなと思いました。
そして、そんな1人1人の心の平穏が平和に繋がることを確信していたのだと思います。
また、更に思い出したのは、いつも視野が狭くなり、一方向しか見れなくなっていた当時の私に別師匠が言ってくれた「物事は色々な角度から見る事が大切。自分が悪くない、相手ばかりが悪いと思っていたら解決しないように、どこにも偏らない、常に真ん中に立って物事を見る視点が大切だよ。」といった言葉です。
当時はその意味が理解出来ず、「私の事、なんにも分からないくせに!」なんて捻くれた考えを持っていました。(思い出すと恥ずかしい)
しかし今になりはっきりと分かる事。
どちらの師匠も共通して伝えてくれようとしていた事は、心の平穏の大切さ。
そして、その先にある広い視野をもち、物事を見る事の大切さです。
正に点と線が繋がった瞬間でした。
最後に。
無事旅行を終え、「ありがとう。」と母を抱きしめた時、背中がとても小さく思えました。
今回の旅で感傷的になっていたのか、たまたまそう感じたのかは分かりませんが、その小さな背中に触れながら、「この人がいなければ、自分が生まれる事もなかった。息子に会う事も出来なかった。」
そぅ思った時、肩の荷がすっと降りて心が軽くなったような気がしました。
この旅を通して、ほんの少しだけ大人になったのかもしれない。
自分の事を少しだけ誇らしく思えたのでした。
追記
最後まで読んで下さりありがとうございます。
本日も皆様にとって素敵な1日になりますように。

























